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     今回は中の巻の整理をします。

      記紀の概要(中の巻)

     上の巻は神武天皇の誕生まででした。中の巻は神武天皇(1代)から応神天皇(15代)迄の物語です。いよいよ古事記における大和朝廷の構築が始まります。
     
    神武東征 ・神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は兄の 五瀬命と高千穂宮で相談。 
    ・天下を安らかに治める為には、『ここは西によりすぎている、もっと東に行くべき』と結論。 
    ・日向を出発、筑紫に向う。(降り立った所が筑紫の日向の高千穂なので、同じ筑紫でも異なるのか?) 
    ・その行程は次の通り。 
     日向→豊国の宇沙(宇佐?)→筑紫の岡田宮(福岡県?)1年滞在 
     →阿岐国の多祁理宮(たぎりのみや)(広島県安芸?)7年滞在 
     →吉備の高島宮(岡山県?)8年滞在→船で瀬戸内海を行く 
     →速吸門(はやすいのと)→波速(なみはや)→白肩津(しろかたのつ) 
    ・ここで戦いがあり、兄の五瀬命が重傷を負う。そこで彼曰く神の子が太陽に向って戦うのはよくない、遠回りして太陽を背にして戦うべき、そこで南に方向転換 。
     →血沼海(ちぬのうみ)(大阪湾?)→紀伊国男之水門(おのみなと)(紀ノ川河口?) 
    ・ここで兄の五瀬命は落命・・御陵は亀山に作った。 
     →熊野村(新宮市?)→宇陀(吉野?)→忍坂(桜井?)→畝傍の橿原の宮で即位 
    ・これが初代天皇神武天皇。 
    ・この間、天つ神軍に対して国つ神の軍が沢山挑戦するが、尽くやぶる逸話が多くある。 
    ・ピンチの時、天照大神と高木神が太刀をくれる話、高木神が八咫烏を遣わす話、兄弟の土豪や土着民土雲の抵抗とこれを平定する話、多くの国つ神の武将が家来になる話等の逸話がある。
    ・日本書紀には金色に輝く鵄(トビ)の話がある。(戦時中の金鵄勲章のもとになった話)
    神武天皇   
    (1代)
    ・神武天皇は、皇后にふさわしい人として伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)と結婚。
    ・3人の子供を産む。日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)である。
    日本書紀ではこの記述に引続いて、神武を『ハツクニシラススメラミコト』と曰くとしている。
    ・これとは別に、日向において『アヒラヒメ』との間に、タギシミミノミコト、キスミミミノミコトの二人の子供が有った。
    ・神武天皇の死、137歳(紀では127歳)。御陵は畝傍山の北カシホ(橿原市畝傍町?)に有ると言う。
    綵靖天皇
    (2代)
    ・神武の死後、タギシミミノミコト(日向時代の子)は父の皇后であった伊須気余理比売を、強引に妻とする。
    ・さらに天皇になろうとして三兄弟の殺害を計画。
    ・伊須気余理比売は悩んだ末、歌で三兄弟に連絡する。
    ・兄が勇気が無く、結果として三番目の神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)がタギシミミノミコトを殺害。
    ・この結果、兄達は神沼河耳命が天皇にふさわしいとして彼が天皇になる。
    ・この天皇が第二代の綵靖(スイゼイ)天皇である。
    安寧から
    開化天皇
    ・以下、安寧(アンネイ3代)、懿徳(イトク4代)、孝昭(コウショウ5代)、孝安(コウアン6代)、孝霊(コウレイ7代)、孝元(コウゲン8代)、開化(カイカ9代)と続く。特に説話記述なし。
    ・記述内容は、宮名、皇后、子供、崩御年齢程度であり、懿徳(4代)、孝安(6代)、孝霊(7代)、開化(9代)以外は長男が継承とある、左記の天皇は次男又は三男。
    ・孝霊(7代)天皇が、オホヤマトクニアレヒメとの間に、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)を生んだとある。
    ・開化(9代)天皇、5人の子供の記述以外に、4男ヒコイマスノミコの子孫を累々と記述その中に、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)(後の神宮皇后)を生んだとある。(日本書紀には無し)
    崇神天皇
    (10代)
    ・開化天皇の子、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)。
    ・疫病が流行、この時、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が夢に登場。
    ・オオタタネコの出現と、神の子である訳のエピソード。
    ・三輪山に大神(おおみわ)神社を作る。(国つ神呪を鎮める為祭ったと思える)
    ・また天上神、地上神の区別を明確にした。
    ・遠方へ将軍を遣わし、国を平定、いわゆる四道将軍の派遣を行う。タケハコヤスノミコトの反乱の説話。(ここに二度目の東征の如き話が出る)
    ・その範囲は東の方十二道といい、北陸、東海、相模、武蔵、会津から陸奥迄と広い。
    ・168歳で崩御、この天皇も『ハツクニシラススメラミコト』と言う。
    垂仁天皇
    (11代)
    ・崇神天皇の子、伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)。
    ・石上神社に刀千本を納めた。子供は16人、この中に後に倭建命の后となるフタヂノイリヒメの記述がある。
    ・皇后の兄、サホビコノミコの反乱事件。(皇后は天皇と兄との板ばさみの中で出産と死)
    ・生まれた長男は言葉を話さない説話で、再度国つ神の怨念の登場、国つ神を敬い、出雲大社の建立。
    ・初めて橘の木を見つけてくる逸話。(飛鳥橘寺と関係ありか?)
    景行天皇
    (12代)
    ・垂仁天皇の子、大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケ)。
    ・記録に残る子供21人、その他合わせて80人があった。
    ・太子と呼ばれる子は以下の3人。
      若帯日子命(後の成務天皇)
      倭建命(ヤマトタケルノミコト)・・日本武尊
      五百木入日子命(イオキノイリヒコ)
    ・景行天皇記は倭建命の話に終始する。気性が荒々しい話、西国征伐の話(変装して行き、熊襲建を討つ)、出雲建の殺害、等。
    ・更に東国十二国の征伐。伊勢、相模、走水、四日市、そして鈴鹿での死の物語。4つの歌。
      (ここに三度目の東征の如き話)

    ・古事記における倭建命は、天皇に疎まれている感じである。
      (日本書紀では自分から希望している)

    ・倭建命の子供の記述有り。後の仲哀天皇(14代)を生む。
    成務天皇
    (13代)
    ・景行天皇の子、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)。
    ・子供は1人、建内宿禰(タケノウチノスクネ)を大臣に登用。
    ・国の境界、国造を制定。
    仲哀天皇
    (14代)
    ・景行天皇の孫、倭建命の子、帯中津日子(タラシナカツヒコノミコト)。
    ・大中津比売命との間に、カゴサカノミコ、オシクマノミコの二人を生む。
    ・神功皇后との間に、ホムヤワケノミコト、品陀和気命(ホムダワケノミコト)(後の応神天皇)を生む。
    ・神功皇后の神懸かりの話。(西方に国在り、この国は胎内の子が治めるべし、これは天照大神の言葉である、等の話)。
    ・新羅に遠征、筑紫で御産。大和へ帰還の途中、腹違いの皇子との戦い。(東征と似ている?)
    ・建内宿禰は皇太子と共に、近江、若狭、敦賀を転々、その後大和に帰還。
    ・神功皇后は100歳で死亡、天皇は52歳で崩御。
    応神天皇
    (15代)
    ・仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた品陀和気命(ホムダワケノミコト)。
    ・この天皇は男11人、女15人を生んだが、重要な人物は以下の3人。
      大山守命(オオヤマモリノミコト)
      大雀命(オオサザキノミコト)
      宇遅能和紀郎子(ウジノワキノイラツコ)
    ・天皇は、それぞれの役割を指示。
      大山守命は山海の政、大雀命は国の政、宇遅能和紀郎子は皇位を担当しろ。

    ・この天皇は、山部、海部等の制度の制定、朝鮮半島からの人材の登用、論語の導入等を行う。
      天皇の死後、大山守命が皇位を欲しくなり反乱(又も国が乱れる)。
      大雀命と宇遅能和紀郎子は協力して、これを征伐。皇位を譲り合うが、宇遅能和紀郎子の早世により大雀命が皇位に着く。後の仁徳天皇。
     いささか長くなりましたが、中の巻のダイジェストです。邪馬台国に関係ない事も在りますが、ご容赦ください。ここでは『国つ神』が時々登場して、国を取られた怨念が残っているようなシーンが在りますし、遠征と内乱の話が数回で出来ます。これも邪馬台国論争を複雑にしている原因だと思います。

     ところで卑弥呼の候補者の一人である『 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)』に関してですが、出生の記述は記紀共に在りますが、彼女の登場シーンは日本書紀にのみ存在します。以下に簡単に説明します。

     崇神天皇(10代)の時、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が夢に登場し、大神神社を祭る話が有りますが、(前述の崇神天皇記)まずここに登場します。
    すなわち、崇神7年2月天皇が災害の多い事を嘆くと、彼女が神懸かりして、大物主神の言葉として『心配無用、私を祭りなさい』と話をする。(国つ神の御告げを言う)
    次に10年9月、タケハコヤスノミコトの反乱に関して、乙女の詠んだ歌に対して、聡明な判断で、反乱のある事を未然に予知、天皇に伝える。
    そしてこの後、彼女は大物主神の妻となる。しかし神は夜にしか現れず、その実態は蛇(おろち)であり、御諸山に帰って行く。これを悔いて箸で陰を撞いて死亡する。
    そこで大市(奈良県桜井市の北部)に葬る。この墓を『 箸墓』と言う。以上が簡単なダイジェストです。詳細は後述しますが、彼女と崇神天皇の関係を、卑弥呼とそれに仕える男子に例える専門家もおられます。



     今宵はこの辺で・・   


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