小説 長塚 節 白き瓶(4) (3)に戻る

 (3)に引き続いて。

番号 メ   モ
婚 約 明治43年、小説「土」の連載が始まるが、それ以前の4月から物語が始まる。節は久しぶりに、東京本所茅場町の伊藤左千夫で開かれた歌会に出席する。左千夫の本音は未完成ながら体裁の整った新築の茶室「唯真閣」を披露することであった。左千夫の借金のこと、奥方が又妊娠したこと等を通して節は左千夫に得体の知れない不安が兆すのを感じる。
  結局伊藤家に泊まることになり、最近の状況などとりとめのない話の後、朝日新聞に連載することを左千夫に告げる。左千夫は喜ぶと同時に原稿料等に関心を示す。節は答える、金額のことはまだ話してない、と。
    上記二つの文節が何故必要なのかよく判らない。左千夫が茶の湯に精通して行く(いる)状況が描かれ、その結果として多くの借財があることがこの小説の後半で重要なことになってゆくのであろうか。話をもう少しすすめて見よう。
  国生に帰った節には、左千夫の経済状態への懸念がむしろ深まったような気がした。しかし正式に連載が決定すると小説のことで頭が一杯になる。小学校の図書室を執筆の場所とし、5月末迄に凡そ40回分ほどの原稿を渡すことが出来た。6月13日から連載が始まる。その後痔疾のため入院などのアクシデントや、左千夫を襲った水害話が語られる。朝日新聞森田が当初から持っていた不安が的中、40回程度の約束がまもられず、151回という長編となって終わる。新聞小説として不適な作品で一般論としては全くの不評であった。節に残ったものはわずかな満足感をのぞけば、疲労感と開放感だけだった。11月17日完結。
    意図したとおり妥協せず書くことと、読者の反応。新聞小説を執筆している間の不安な心理は、流石に経験のある藤沢周平ならではの文章である。連載の途中において、節は「土」の評判が芳しくないとは夢にも思っていなかった、とある。本節以降この評判に対する節の思いが書かれていない。本人はどのように思ったか知りたいところではある。主筆の池辺三山や漱石、安倍能成が評価した稀有の小説という評で満足したのか。
  明治44年9月「アララギ」に3年ぶりに短歌『乗鞍岳を憶ふ』十四首を発表。少し遡って「土」脱稿後節をしめつけた問題は、借財と纏まらぬ縁談であった。44年は秋葉きし子との縁談が不調で幕を開ける。しかし4月黒田てる子と見合いをし、話は順調に進むが、節の方に家計の建て直し問題があり諾否の返事が遅れる。弟も、兄がてる子を気に入っていないのかと誤解するほどであるが、この時期、節の生活は竹林栽培を中心とした百姓の暮らしそのものであった。「承諾の返事を出そう」そう決心したがぼんやりした不安は拭いきれない。その不安の正体とは家計のことではなく、咳と喉の痛みであった。
    性格の同質性と共に、藤沢周平が長塚節に特別の関心を持った所以を垣間見るような気がするが、いかがなものであろうか。
女人幻影 借金返済を目論んで拡張をした竹林と、それにまつわる「もう一杯くんろ」事件を中心に、節の過度な潔癖性と物差しの異なる村人たちとの諍いが語られる。そして夏ごろから痛み出した喉に悩まされ下妻町の「中島医院」の治療をうけている節であった。やはり東京で診てもらうしかない。
    節の行った放し飼いされた鶏に対する、毒物事件はいささか驚きである。大地主対小作人の立場。明治という時代では特に驚くことではないのかも知れないが、これに対して藤沢周平はどのような思いであったのか、文章からは読みきれない。又このような事実をどのような資料から得たのであろうか。
  11月21日、東京の木村医師から喉頭結核であり、放っておけば一年か一年半と告げられる。節が医院を訪れるまでの不安、病名を宣告され帰宅(小布施家泊)するまでの心情が見事な文章で綴られる。寿命一年ほどと宣告された事とは無関係な人人の表情や日没直後の光が仄明るく照らす町。電車を降りて思い出す最初に診てもらった小此木医師との関係。この夜のことが翌年明治45年2月に十首の作品として発表されることになる。
    木村医院を出た節が見た町の風景描写、節の心境表現は、さすが藤沢周平、と唸る思いである。名作「蝉しぐれ」の矢場の坂はこの文章の延長線上にあるのかもしれない。藤沢周平ご自身が経験したであろう切なかった想いが重なってしまう。清水氏との書簡で、喉頭結核を宣告された時刻についての話が登場するが、これも面白い。
  木村医師に多少の不信感を抱く節は、弟の順次郎の計らいで岡田和一郎医師の診察を受け、12月5日根岸養生院に入院、12月8日第一回の手術を行う。そして自分の創作について考えるゆとりを取り戻す。その上で或る殺人事件を小説化する気持ちになる。旧友が大勢見舞いに訪れ、中村憲吉などは「その落ちついた態度に驚いた」と後に書いている、と。
  入院中の節の心の中に「南国土佐」という地名が棲みつき、退院後は九州を一巡し最後に土佐まで行く計画が出来上がる。12月24日左千夫の見舞いを受ける。「アララギ」の現状などを久しぶりに聞いた節は、黒田てる子には婚約のことわりの手紙を出したと伝える。その夜帝大法科学生柳沢健と「小公子」を観劇し、病院に帰ると黒田てる子から風呂敷包みが届いている、「兄の代理」で来たと。手紙を読んでもう一度だけ逢いたい旨の長文の手紙を書く。この一夜のことが翌年「病中雑咏」として「アララギ」に発表。
    本節と次節は本作品中でも圧巻となる文章が綴られる。
本節は伝記的小説から一変して、小説そのものの書き方になる。左千夫との会話や看護婦たちとの遣り取り、てる子の手紙を読んだ後の心の掻き乱れなどは、藤沢周平にしてはじめて書ける名文章ではないか。つい藤沢の入院時代を想像し重ね合わせてしまうのは私だけか。このあたりの文章を読むと、現代小説をもう少し書いてほしかったような気になる。
「小説の中の真実」語られている左千夫の訪問日のくだりは本節である。23日、24日のいずれにすべきか迷われ、結局節の日記は目をつむり24日説としているが、そこに到るまでの理由とこだわりの凄さは驚くばかりである。
  病状が予期していたほど快方に向かわず、心を込めて書いた手紙に対して黒田てる子からは全くの無反応のうちに明治45年元旦を迎える。堤定次郎が話した九州帝大の久保猪之吉博士の名前を心に刻むが、最大の悩みは黒田てる子とのことである。「兄の代理」をそのまま信じた、或る意味での世間知らずの節には黒田家の真の判断がどのようなものかを考えてもみなかった。悶々とする中で、てる子に呼びかける歌が幾つか出来る。1月26日最後(6回目)の手術、耐え難い孤独感に苛まれ寂寥とした病院で、てる子とのことは「だめかも知れないな」とあきらめの気持ちが胸に動く。こうして出来た歌は「アララギ」に発表されるが、それは今までの節の作品とは趣の異なる、内的告白の歌であった。2月20日根岸養生院を退院、幾つかの雑事を済ませ、3月7日帰郷、帰る途中で横瀬夜雨から黒田てる子が他の家に嫁入るらしいという話を聞く。夏目漱石から久保博士への紹介状をもらい、3月19日九州へ旅立つ。
    ここでも節の掻き乱れる心のうちが鮮やかに、しかも暗く綴られる。父が見舞いに上京した場面で、留守を守る母の心細さを綴る文章も心に沁みる。清水房雄氏との書簡で「久保博士をどうして知ったか」という遣り取りがあるがその場面は本節の冒頭である。資料の信憑性にあやふやさがあるが、突然久保博士を登場させるわけにはゆかなかった、という藤沢は幾つかの仮説(ルート)を設定し、その中から尤もと思える考えを採用したと書き、学術と小説の世界の相違をはっきりと言い切っている。又堤定次郎の肩書きに関しても何故「内務部長」としたか、忸怩たる思いはあるがその訳を説明している。藤沢周平の人柄を充分に感じさせる章節五である。因みに1月26日は藤沢周平の命日である。

ほろびの光に続く


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