小説 長塚 節 白き瓶(3) (2)に戻る

 (2)に引き続いて。

番号 メ   モ
暗い輝き 明治41年11月12日、節は「秋雑詠」と題した8首の作品が出来る。赤彦に書き送り、左千夫との関係から多少の小細工をしたものの、紆余曲折があって結局発表の場を失う。そしてぷっつりと作歌を中止してしまう。一方で、自分の非を絶対認めない左千夫と岡麓、柘植潮音、特に三井甲之と不仲になっていった様が累々と書かれる。左千夫と一線を引いたものの節は二人の関係を修復できるのは自分だけか、と思う。
    当時の発表の舞台は「阿羅々木」「ホトトギス」「アカネ」「国民新聞」「比牟呂」であることが分かり易く書かれる。そして自尊心を傷つけられた怒りは根深く残ったが、子規の同門という「血を分けた同趣味者」意識は切っても切れず、どこかで抑制する気持ちが、三井と左千夫を和解させねばという思いになる。節はやはり優しい人間なのかもしれない。
  年が明けて明治42年1月節は左千夫宅を訪ねる。節は「ホトトギス」に短編小説『開業医』を発表していた。再度左千夫から批判を浴びるが、小説なだけに腹が立たなかった。そこに蕨桐軒が立ち寄り高浜虚子の言葉と共に、三井との和解を勧める。
  蕨桐軒が帰った後、左千夫は、彼では役者不足と憤懣やるかたないが、節は仲直りを勧める。君の思い上がりだとその必要性を説き、二人して出かけることになる。会話の途中、奇妙な虚脱したような表情の左千夫を見る。46歳になった子沢山の左千夫の様子が描かれる。結局、形の上で和解は成立する。
    「明け方ひょっと眼がさめたら、家内が浮かない顔で布団の上に座っているんだ」で始まる八人目の子供の妊娠のくだりはなんとも言いがたい思いに駆られる。46歳になってしまった左千夫の焦り・悩みが夕日の情景と相俟って見事に描かれる。藤沢作品の面目躍如である。ここの表現は何を意味しているのか。左千夫の意外性を知らしめようとしたのか。
  強引な和解ではあったが節はひとまず「なすべきことはした」と思った。暫く歌から離れる気持ちは変わらない。しかし新しい小説の構想が膨らむ。そして「伊藤左千夫」「田山花袋」「島崎藤村」「国木田独歩」「夏目漱石」などの作品に対して反発をしたり共感を覚えたりする節であった。その上で自分の住む国生の風景は、独歩の武蔵野に負けないと思えるようになる。それは小説というものに眼を凝らしてはじめて見えてきた光景や音であった。
    当代の小説家の作品を、節の立場で共感したり反発をするくだりは、何か参考文献があってのことなのか、それとも著者藤沢の推測か。巻末に膨大な参考文献が掲載されているのでこれらを精査すると判明するのかもしれないが。小説家の凄さを感じる。
  孤独な環境に自分を閉じ込めたものの創作活動は進まない。自身の高熱、母の病、父の借財、そして一家の主代わりの雑事。そんな時の6月、三井甲之からの手紙で「阿羅々木」「アカネ」を廃刊し、新たに隔月刊の歌集を発行すると言う思いもかけない話を知る。その原因として、斉藤茂吉と三井甲之の対立が語られる。しかしこの話は流れ、結果的に「阿羅々木」は新しく「アララギ」として生まれ変わる方向となる。更に費用負担に関して左千夫からの手紙で、彼との仲がどうしようもなく捩じれて行くのを感ずる。
    合同問題に節は直接的には関与していないが、著者は節の想像という形でその経緯を語る。同根ではあるが「阿羅々木」「アカネ」という二つの誌を通して、斉藤茂吉等若手と三井甲之の対立がどのような経緯・経過を辿ったかを説明しながら、節自身「若い連中が育ってきている」と実感し、左千夫の権威の喪失を示唆する。
  六・七 ここで物語りは文壇から離れ、盂蘭盆前の、ある日の節の行動に移る。盗癖のある小作人「嘉七」親娘の話や警察沙汰の話を始め、少年時代の女性に関するある種の思い出、更に村の若者のこの時期の楽しみ、昔青年会長をしていたときの思い出、そして意外にも作男の「八造」との覗き遊び。そしてその日の出来事を「村のノート」というメモ帳に書き込む節である。
    今までの書き方と突如変わって、所謂、小説形式になる。骨の折れるような苦労をすることなく、す〜と読める文体である。小説『土』の原風景と思われるシーンが展開され、言葉遣いも茨城、千葉方面の言葉が正確に表現されている。(私は左千夫の出身千葉成東の近くの育ちです)多くの文献を参照しているが、その正確さに驚くほどである。著者はここで何を言わんとしたのか、文体は分かりやすいが真意は愚者には・・。
  再び文壇の話に戻る。蕨真との書簡の遣り取りを通して、左千夫との関係がますます不快なものになってゆく経緯が語られる。「阿羅々木」から「アララギ」に変わってゆく際の左千夫の「アララギ」を私党化するが如き横暴さと、資金負担をする蕨、岡の処遇に対する怒り。かつて希望に燃えて出発した頃を振り返り、その後離反していたった多くの仲間、そして信じられないほどのルーズな一面と虚栄心。思い出す一つ一つに立腹する節であるが、それでも「まあいいか」と独り言をいい、昨年二泊三日で訪ねた東北に改めて旅する準備をする。それには訳があった。
  10月1日旅に出る、しかし目的のひとつである平泉の娘は既に嫁に行っており会えなかった。この旅では女性に関して相当の関心を持っていたことが旅先から投函した便りを通して語られる。東北は娘、妻女とも美人が多いといい、唯庄内では美人に会わなかったと書く。国生に帰った節は「下妻読書倶楽部」に入会する。
    青森、弘前、秋田、男鹿あたりで出会った娘や嫁女は実に美人が多いと書き、庄内美人の噂でも聞いたか予定を変更して庄内平野に向かったが・・、酒田・鶴岡の地名まで明確にして、そこには美人に全く会わなかったと節は書く。ここでは藤沢の心情が以下の如き文章で書かれる。「田の中畑の中に、頬かむりしてごろごろいたはずの庄内美人が眼にとまらなかったのは、節の不運としかいいようがない」。何となくニヤリとしたくなる文章である。
  「下妻読書倶楽部」は節に少なからぬ影響をおよぼした。以前から親交のあった横瀬夜雨との関係を語り、二人の性格の違い一口で言えば夜雨はざっくばらん、節は固苦しい性格と書く。一方橋詰孝一郎とは「為桜」という月刊の同窓会誌を通して親密なつき合いをして得がたい友人となる。同時にこの倶楽部から回ってくる雑誌や本を読んで、ロシア文学に惹かれてゆく。明治42年は結局何も創作をしないで過ぎてゆく。
    横瀬夜雨との関係を綿密に書く場面で、節と藤沢の性格の同質性と思われる文章が覗える。すなわち節の性格はとにかく内に閉じ篭りがちで、たとえば政治などというものを極端に嫌った、さらに本領の短歌にしても、根岸派の一部に名を知られるだけの境遇に甘んじ、郷土の新聞、雑誌に作品を発表することがなかった、と書く。藤沢のスタンスも同様ではないか。
  十一 明けて明治43年、小説「隣室の客」、「十太と其犬」を続けて発表する。節の考える小説というものは、田山花袋の主張するようなものとは異なると説明する。二つの作品が「ホトトギス」に掲載されてから間もなく、朝日新聞の文芸欄担当の森田草平から手紙が来る。その内容は夏目漱石からの依頼文で新聞小説を書かないか、というものであった。結果的にその依頼を受けることになるが、そこにいたるまでの経緯が事の重大さ、家の借金問題、書くべきテーマの選択等を中心に細かに書かれる。そして後世に残る長塚節作品「土」の第一章を書き出す。
    小説のあるべき姿とはいかなるものであろうか。田山花袋と節の考えを読みながら、このあたりの文章は、藤沢がエッセー集で述べている「小説の中の真実」と共通する考えであるように思える。ただ本節の冒頭で書かれている真の意味合いは、私には解釈・理解がむずかしすぎる。並みの作家ではなかった藤沢周平にして、はじめて書ける文章なのかもしれない。

婚約に続く


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