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     今回は魏志倭人伝の信憑性の関する議論のお話をしましょう。

      信憑性は、又著者とその見識は

     何故このように氏素性をくどくどと説明したかといいますと、これらの変遷の過程で(約9世紀の間)、書き間違い、いわゆる誤写が全くなかったかと言う大切な議論があるのです。幾つかの文字が指摘されていますが、一番大きな論点は、邪馬台国の国名そのものなのです。すなわち紹興本や紹熙本は

      『邪馬臺国』ではなく『邪馬壹国』となっているのです。

     にも拘わらず、何故『邪馬台(臺)国論争』となっているのか。(通説としては、当初は壹であったものが誤りに気づいて臺に修正した)この議論に関しては次項で触れますが、ここでは『魏志倭人伝』の信憑性の問題点として、たんに挙げておきます。信憑性が無いと言う人は、このテーマそのものを否定することになりますから、興味を持っている人々は一応、総論としては、信憑性は充分にあるとしています。各論としての議論では、一字一句修正すべきではない、と言う人と、数箇所に関しては明らかに誤写であろう、と言う人々が存在しています。ここでは、立場はさておき、十分に信憑性はあるとしておきます。(そうでないと次に進めませんし、私は大局観として当時の認識としての嘘は書いていないと信じております)

     さて、『王沈』や『魚豢』や『陳寿』は倭に来たのでしょうか。学者の殆ど全てが『来ていない』としています。彼らは王朝に使える官吏ですから多分そうでしょう。しからばどうして倭の事を知ったのでしょう?。当然、魏の使者の話を聞き、この情報が中心となっている事としていますが、これに関して幾つかの説があります。

       ◎ 洛陽に来朝した倭の使者から補足的に情報を取った
       ◎ 魏の使者が途中までは行って見聞している  (例えば伊都国や諸説あり)
       ◎ 魏の使者は邪馬台国迄行っている      (使者の名前は魏志倭人伝に記述されています)

    現在では証拠確認は当然出来ませんので、何とも言えませんが、『魏志倭人伝』の記述全体を通しての解釈から、途中まで行っていると言う意見がやや有力です。何れにしても、この結果信憑性に関して以下の様な議論があります。

       ◎ 魏の国を見て、倭の使者は自分の国をかなり誇大的に説明したのではないか
       ◎ 魏の侵略を怖れて、魏の使者に伊都国以降の方角などで、嘘の説明をしているのではないか
       ◎ 陰陽五行説思想に基づいた奇数を中心に多用した相対的数字にすぎない
       ◎ ほとんど当時の認識としての真実に近いのではないか

    等々の議論があり、どのような立場に立つかによって、『魏志倭人伝』に書かれている方角や距離、戸数等の数字に対するこだわりの度合いが異なってきます。しかし、いずれにしても、書かれている文献以外に基本的手掛かりはないわけですから(考古学上の発見があるにしても、その結果を対比すべき文献として)、ここでも総体的には信頼に値するとしておきます。      


      皆さんがどう判断するかは、いま少しお待ち頂き、実際の道程記事をお読みになってからなさって下さい。以上が魏志倭人伝を氏素性の観点からみた信憑性の問題です。  では今宵はこの辺で・・      

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