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没後十年・生誕八十年


 『たまにプロ野球をスタンドで見物することがある。密かに応援している選手もいる。その選手が活躍をした時など、立ち上がって大きな声で喜びを表すことなど出来ず、心の中でそっと拍手を贈り、顔がわずかに微笑む・・・そんな野球ファンである』いつの頃であったか、どなたが書かれたものか失念してしまい全く記憶がないが、何故かずっと私の記憶に残っている好きな言葉である。

 1月26日は藤沢周平の命日である。今年(2007)は没後十年と言うこともあって、映画の公開、テレビ・新聞の特集番組や記事、出版社の作品/人物論・ムック・ビジュアル誌の発行などまさに百花繚乱の様相である。拝金主義や殺伐とした事件の多い現在において、時代の要請と言うことであろうか、今改めて藤沢周平作品に新しい光が当てられている。より多くの人人と藤沢作品を共有できることは一人のファンとして嬉しいかぎりである。

 中でも一人娘の遠藤展子氏が上梓した二冊の本「藤沢周平 父の周辺」(文藝春秋)「父・藤沢周平との暮し」(新潮社)は、人間藤沢周平の側面、いや正面を見据えたよい読物であろう。作家藤沢周平の人となりが実によくわかり、あらためて作品の背景にあるものや、藤沢周平が行間に言わんとしている副次的な意図(糸)がより鮮明に見えてくる。今まで気がつかなかったチョッとした文章に思わずニンマリすることも多々ある。まさに藤沢周平作品の再発見となる格好の副読本でもある。

 映画の公開やテレビドラマの再放送もそれなりに好評のようである。12月26日で生誕八十年という事もあり、更に今後いくつかの企画があるようで、これも楽しみである。藤沢作品の映像化は難しいなどと、ファンの間で喧々諤々のようであるが、特別にシリアスな作品は別として、娯楽性を持った作品は私など単純に楽しんでいる。鑑賞後、期待とはいささか落差を感ずる作品も時にはあるが、これは多分、素人の無恥さからくるもので大した根拠は無い。今後も一気にではなく拙速にして、一つひとつ丁寧に製作していただき、静かなブームが永く続くよう願っている。没後十年というこの時期、それなりに楽しませて頂き各メディアに心から感謝である。

 一方で多くの人人が語る作品/人物論や作品解説にはいささか食傷気味である。近年刊行されているムック本やビジュアル誌における作品解説のほとんどは、作品そのものの解説と言うより、藤沢周平の生き方や考え方を賛美し、その反映が作品の骨格をなしていると語る。作品解説と言うよりも人物解説に近いものまである。多くの作品が異口同音にこのように語られる作家を私は他に知らない。本来、作家や芸術家がどのような生き方をしていようと、作品が全てではあるまいか。誤解をおそれず極論を言えば作家の生き方はそれぞれである。歌手は歌が上手、作家は作品の完成度の高さが全てであろう。

 確かに藤沢周平は多くのエッセーを執筆している。彼は言う。「私の小説を読んでくれるひとの中には、あるいはこの小説の作者はどういう人間なのかと思うひとがいるかも知れない・・中略・・そういう理由からこのエッセーをまとめることにしたのである」(周平独言・・あとがき)

 上述の理由だけではないであろうが、エッセーで藤沢は多くのことを余りにも正直に書いてくれた。したがって藤沢の半生・生涯は事細かに掌握できる。しかしこれらを読めば読むほど一つの結論に至る、それは「控え目」でありたいという一言ではあるまいか。そんなことを考えて思い出したのが冒頭の文章である。藤沢は宗教家や哲学者ではなく「作家」である。個人の歩んだ過去や性格などにあまり立ち入ることなく、純粋に作品とその行間も含めた味わいのある、識者の解説を期待したい。そのような解説であれば一作品に複数の解説が存在することも、それはそれで楽しいのではないか藤沢自身も現在の扱い方に天国で些か苦笑し、多少の戸惑いをされているように思えるがどうであろうか。

 尤も、かく言う私に対しても「君のホームページこそ余計なことをしている」と憤慨しておられる方がいそうな気もするするゆえ、私こそ一考を要するのかも知れない。唯、熱烈な作品ファンを自称するたーさんに対して多少甘い判断を期待しているが、果たして・・・。尚、この文章は私のホームページには不似合いなような気がしますが、没後十年という節目ということから、敢えて掲載をしました。ご理解ください。  (2007年3月)

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