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小説 長塚 節 白き瓶考(1)


 『鍼の如く』という到達点を示す歌集を持つ『歌人』として、更に小説『土』の『小説家』として著名な『長塚 節(たかし)』の37年の生涯を書いた作品である。文庫本解説の清水房雄氏は、この作品の面白さは『骨の折れる面白さ』と言われている。たしかに骨の折れるそしてやや難解な感じの作品であるが、この作品は作家藤沢周平の精魂込めた最高作品に思える。

 精緻・綿密な調査に基づき、一行一行にこれほど重みのある作品はないと思っている。エッセー集にも多くのページを割いて書かれ、かなり力を入れた作品であることに間違いはない。唯、何故、長塚 節を題材にしたのか。著者は『小説の周辺』で三つのエッセーに書かれている平輪光三著『長塚節・生活と作品』という本との出会いであると言う。このことによってある程度理解できるが、果たしてそれだけであろうか。上記作品を絶賛しているが、その上でご自身が題材としてとりあげた訳が別にありそうに思える。同時に全集25(補完)に編纂されている『清水房雄氏』との書簡集でも明らかな通り、小説の形式でありながら何故これほどの拘りを持たれたのか。

『この作品はどうしても途中で挫折してしまう』という藤沢作品ファンの友人も存在する。たしかに一気に読むには相当の努力?が必要であり、それで理解できるかと言えばそれもまた難しい。少なくとも本作品を深く理解しようとすれば、少しずつじっくりと読む必要がある。しかしその結果、以前に読んだ経緯が曖昧になってしまっては元の木阿弥であろう。そこで、先ず本作品の基本的な構成をメモする意味で以下のような纏めをしてみようと考えた。こうすることによって、特定の箇所を再読しても前後関係が混乱することもなく、事が進むのではないか。その結果、『小説の周辺』や『小説の中の真実』などとあわせ、前述の疑問に何らかの答えが出るならば、それらに関して後述することにしたい。単なる普通の藤沢周平作品ファンである私にはおこがましいことと思うが、HPということで笑って済ましていただきたい。(アマチュアには無理なことだと思いますが・・・)


因みに長塚 節は、1879年(明治12年)4月3日生誕、1915年(大正4年)2月8日逝去、37年の生涯である。

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番号 メ   モ
根岸庵 節が体操をしているシーンから物語りは始まり、広大な下総(茨城県南部)の風景の中、体の弱かった少年時代を回顧し体力が回復、一人の小作人「嘉七」とその娘を通して、大地主の長男として24歳になった今を語る。時は明治36年春であろう。
    春まだ浅き下総の雑木林の描写一つで、純文学、大衆文学等と言う形骸化された議論を超越した本格的な作品に挑もうとしている作者の意気込みを感じる。先ずはさらりと読むことが出来、理解できる出だしである。
  野良着を着るのが好きな節が、使用人の源三郎の仕事を遊び心で手伝いながら、祖父が大地主となったいきさつ、父源次郎の地方政治家としての性格・活動、村人たちとの必ずしもよくない関係、資金不足で立候補を見送った後に残った多額の借金と裁判沙汰。財産が枯渇してゆく環境に中で、長男としてこの家を継いで行かなければならない自分の立場等が、過去を振り返る形式で、鬼怒川土手の美しい風景描写の中で静かに語られる。
    祖父が大地主となった経緯で、早くも年月日、田畑の大きさその他多くの数字が羅列される。節本人以外のことにもかなり詳細にわたって言及している。ここまでやるかと言う思いである。他の作品にもあるが、鳥のしぐさを巧みに現す表現は実に上手い。
  ここから正岡子規、伊藤左千夫が登場。35年5月、寄稿しておいた短歌「ゆく春」が『日本』紙上に掲載された喜びから始まり、寺田憲を訪ね短歌における「万葉と写生」二つの柱について語り、「根岸短歌会」(正岡子規)と「新詩社」(与謝野鉄幹)の確執、節の新詩社嫌いなどが語られる。
  35年9月19日子規の訃報に接し、子規からもらった手紙に思いをはせる。その上で葬儀での左千夫の傍若無人な振る舞いを語る。子規の「歌よみに与ふる書」を読み、子規の歌論の歯切れのよさに心酔、明治33年3月28日、初めて子規を訪れた経緯を語る。師弟関係はわずか2年余りで終わった。
    水戸中学時代に短歌や文章を発表して以来俳句には感銘をしていなかった節が、塩原から帰って「我が俳句」という論文が記憶に残り、その人物が子規であることを知り、注目して読むようになった、とある。この辺の文章から、俳句と短歌の両方に関心のあった藤沢周平が、長塚節を書いてみようと思った片鱗が感じられるが・・。
初秋の歌 子規没後の根岸派の運営のあり方の議論が沸騰。発表の場を失う危機感。左千夫と森田義郎の確執、運営と費用問題。長塚家の家族の動向と費用、母の老など、厳しい現実を実感する。同時に左千夫の起伏の激しい気質が語られる。
    本作品冒頭のプロローグにあたる「根岸庵 一」は、この時期(明治36年春)の状況と思われる。何回か読んでやっと理解できたような気がする。時系列に整理すると、ここ迄は多少複雑な構成で過去を語る形式である。したがって本作品は、子規の死を起点とした明治36年春まだ浅き時をスタートとした物語と考えられる。
  36年6月「馬酔木」が発刊された。同人は節を含め9名。しかし不安な船出であった。左千夫と画家の平福百穂が訪ねてきて筑波山に登る。道すがら馬酔木の今後と費用負担で寺田、岡への出資依頼などについて思い悩む。又義郎との和解を促す節である。
    数多くの実名の歌人が登場。ある程度の重要人物のみではなく、全て網羅すべく調査をした様子が伺える。創刊号の費用負担まで明細書かれている。
  36年7月下旬に出発したひと月におよぶ近畿旅行が書かれ、「馬酔木」に発表した『まつがさ集一・二・三』などの創作活動が語られる。そして義郎が編集委員をやめ去って行くという事件が発生。せんじつめれば義郎は子規短歌の方向を理解していないと言う左千夫の批判があり、節はやむを得ないと思う。しかし左千夫の強引さに不安を覚える。そしてこの年が暮れる。
    文献が存在するのであろうが、左千夫と義郎の手紙のやり取りなどここでも細かな調査に目を見張る。又近畿旅行の詳細な日程などここ迄書くか?と思うほど凄まじい。このあたりで挫折する読者もいるのかもしれない。
  節はこれぞと言う歌が出来ない。その原因は迷いである。発表しても反響なし、左千夫に酷評され彼を怖いと思う。日露戦争が勃発、左千夫が普段の声で物を言うのに対し、興奮していた自分の声は借り物と気付き、恥ずかしさを覚える。地声で読むべきだ、それは「写生」という方向だとわかってきたが言葉が見えてこない。しかし掴みかけていたのである。
    藤沢周平も戦争に対する思いはかなりあることがエッセー集に見える。イデオロギーから物を言っているのではない左千夫の文章に、藤沢周平は思いを同じくしているのであろうか。
  掴みかけた一つの成果として、37年後半に「榛の木をよめる歌」を発表。しかし38年早々、左千夫が批判文を掲載、二人の議論は平行線をたどる。「馬酔木」の衰退により苦悩する左千夫があちこちに噛み付く。節にはもはや迷いは無かった。子規との諸事を思い出し、左千夫には「写生歌」は見えないが自分には見えるという確信をもつ。
    節には窮地に立つと、かえって冷静になる性格がひとつ隠されている。冷ややかな闘争心とでもいうべきその気持ちの在りようを・・・と語る。このあたりが藤沢周平と相通ずるのかもしれない。ここでは作品ではなく性格の同質性という意味である。
  節の念頭には家の借財のことが居据わっていて、新方式の炭焼きに熱中する。左千夫と連れ立って神崎の寺田を訪ねた経緯が書かれ、うんざりした思いをする。結婚などとても考えられない中で、8月18日から10月13日までの大旅行をする。作歌の迷いが吹っ切れた彼は続々と短歌を発表、短歌298首、長歌12首。充実した38年であったが年の暮れ訴訟騒ぎで家財を差し押さえられてしまう。
    大旅行家でもあった節の片鱗を覗える文章が書かれ、旅の途中から旅そのものに惹かれている自分に気が付く。一方で節の倹約家の一面を細かに書いている。旅というものに対する考えも藤沢周平と類似しているのかは不明であるが・・。「小説の中の真実」で書かれている『小堀(おおほり)』の話はこの文節中に現われる。
  「ホトトギス」を主宰する高浜虚子が登場。写生文を間歇的に書いてきた節が「炭焼きのむすめ」を発表。坂本四方太に激賞される。39年8月24日から再び旅にでる。凡そ40日の旅は写生文の材料探しであった。同時に今年になって左千夫からきた手紙が詳細に書かれる。左千夫は主観が認められない客観写生歌なるものは歌ではない、と決め付ける。節は腹を立てない性格であるが、流石に色々書かれるともう沢山だと思う。それでも写生文「佐渡が島」を執筆中の40年3月、十首を左千夫に送る。節はこれらの歌は今までとどこか違うという気がした。
    ここでは短歌から少し離れて写生文に関心を持つ。写生文のほうが面白いとさえ行っている。俳句から小説家への道をたどった藤沢周平にとって、理解しやすい変化ではないか。
  借金が消えたわけではないが、それなりの整理をし、弟妹たちのことも落ち着き節に結婚話が持ち上がる。相手は井上子爵家の次女、艶子。節は乗り気になるが、遅遅として進まず結局破談で終わる。一方で父は再度選挙に出て当選、選挙資金のことで寺田とも一時不仲になる。左千夫の仲介で節が詫びて仲直りをしたものの波乱に富んだ一年であった。しかし、11月「ホトトギス」に発表した『佐渡が島』が高浜虚子に激賞される。合わせて父が「臣源次郎」と綽名される経緯が最後に語られ、そして明治40年も暮れる。
    ここでの圧巻は、縁談話が進まないことはおれの運命かも知れない、という諦観めいた気持ちの中で初秋の夜の悲傷の思いにくれる心情を表す文章であろう。美しい文であるがそれは単に美しいと言うだけでなく、節が変化と飛躍する刹那を見事に現している。この文書だけを読んでも藤沢周平の力の入れようがそれとなく理解できる。

亀裂に続く


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